■白鹿亭冒険記譚■ □白鹿亭小話~春の話□
窓から差し込む柔らかな日の光に、ローゼルはついと目を細めた。白鹿亭一階の食堂兼酒場で読書を始めてから数時間、没頭している間に客は移り変わり、今はローゼルしか残っていない。読み始めたときに出してもらった紅茶はすっかり冷めきっており、流れた時間を感じさせた。
図書館に借りた本は、今読み終わったもので最後だった。すっかり手持ち無沙汰になってしまって、ひとりの宿を見回す。夕食の仕込みに取りかかっている宿の亭主を呼ぶのも気が引けて、ローゼルは冷めた紅茶を飲みながらどうしたものかと思案した。
「あれ、ローゼルひとりか」
宿の二階から降りてきたのは仲間のライハだ。眠そうにあくびをかみ殺しながら、カウンターに座っていたローゼルのところまで歩み寄ってくる。もう昼食時もすっかり過ぎているというのにのんきなものだ。
「ずいぶんとよく寝ていたようで。あなたが起きないから、みなさん方々出かけてゆきましたよ」
「ウェスタリアのことわざにもあるだろ。春眠暁を覚えずってな」
それにしても寝すぎでは、と思ったものの、昨日夜遅くにひとりの依頼から帰ってきたばかりだったのを思い出したのでそれ以上は言わなかった。ライハはカウンターの中に亭主を探し、奥の厨房を覗き込んでからローゼルに尋ねた。
「親父さん、仕込み中か」
「みたいですね」
「じゃあ、外で食うかな……ローゼルも行くか?」
ジャケットを羽織って当たり前のように誘ってきたライハに渋面を返すと、ライハは苦笑しながらローゼルの手元の本を指さした。
「それ、読み終わったんだろ。ついでに図書館寄ろうぜ」
「……あなたの食事がついでです。仕方ありませんね」
つっけんどんに言いながら立ち上がり、ローブを羽織る。返却する本を入れたショルダーバッグは肩にかけようとしたらライハが持ってくれた。そういう、さりげないところに腹が立つ。
「もちろん、私のお茶代はおごってくれるんですよね? 昨日報酬頂いてましたし」
「その報酬はエリータがツケた酒代に半分以上消えるんだが……ま、たまにはいいか」
ドアを開けると、春の香りがそっと鼻先をくすぐった。あの塔を出てからはじめての春だ。柔らかい日の光、色とりどりに咲き誇る花々に集う蝶々、風に乗ってほのかに香る花と新緑の香り。人々が活気づくのもわかる。春は、美しい。あの頃は、そんなことさえ知らなかった。
「春は、花がたくさん咲くのですね」
「塔の庭には咲かなかったのか? じゃあ、帰りに東の森林公園にでも寄るか。色々咲いてて見ごたえあるぞ」
「ライハがそこまで言うなら付き合ってあげましょう」