■初恋のレモンタルト■


 なけなしの勇気を振り絞った人生初の告白は、めん棒で叩き割られたクッキーのように粉々に砕け散った。

 いつもの放課後、いつもの喫茶店。私はひとり席に残ったままテーブルをぼんやりと見つめていた。想い人だった先輩が出て行ってからどのくらい経ったのだろう。頭の中では、困り果てた顔で謝る先輩の声がただひたすら繰り返されていた。

 そんな私の意識を現実に引き戻したのは、突然目の前に置かれたレモンタルトだった。驚いて傍らを見上げると、フォークを皿の横に添えるマスターの姿がそこにあった。二十代後半ぐらいの彼は、先代の急逝で若くして店を継いだらしい。短く整えた黒髪と切れ長の瞳が涼やかな印象だった。

「あの……?」
「試作。サービス。レモン苦手じゃなければ」

 ぶっきらぼうな答えに、お前は先代と違って愛想がねぇなと常連客に笑われていたのを思い出す。礼を伝えたものの、マスターはその場を動かずにじっと私を見ていた。遅ればせながら感想が欲しいのだと気づいて、私は慌ててフォークを手に取ってから、改めて目の前のレモンタルトと向き合った。

 表面を彩る輪切りレモンのコンポートはつやつやと輝き、添えられたミントの鮮やかな緑が爽やかな黄色によく映えている。そっとフォークを刺せば、コンポートとその下のレモンカードを通り抜けて、底に敷き詰められたクッキーに先端がさくりと突き刺さった。そのまま切れ端を掬い上げるように口へと運ぶと、クッキーがほろりとほどけ、レモンカードの甘酸っぱさが口の中いっぱいに広がった。


『きっと、憧れみたいなものさ。それは本当の恋じゃないよ』


 取り繕うように笑った先輩の言葉がよみがえって、涙がぽろぽろ零れ落ちた。一度出始めた涙は止められず、次から次へとあふれてくる。

「わたっ、私……ちゃんと本気、だったのに」

 勝手に気持ちを決めつけられて、本気で向き合ってもらえなかった。それとも先輩の言った通り、私の恋はママゴトのようなものだったのだろうか。霧の中の迷子みたいに、本物だと信じていた心が揺らぐ。

「知ってるよ」

 思いがけないところから思いがけない言葉が降ってきて、私はマスターを仰ぎ見た。突然泣き出した私に迷惑そうにするでもなく、マスターは淡々と言葉を重ねた。

「あいつといるとき、ちゃんといい顔してたよ。楽しそうっていうか、幸せそうっていうか」

 彼の言葉がじわりと染み込んで、心の霧が晴れてゆく。本当だろうか、とそれでもなお疑ってしまった私の目を、彼は誠実な表情で見つめ返した。

「本気だったんだろ。自分の気持ちくらい信じてやれよ」

 再び視界がにじんだのは、そう言った彼の声が温かかったからだ。嗚咽をぐっと飲み込んで、私はくぐもった声でありがとう、と呟いた。

 マスターの眼差しが優しげにゆるみ、口元がかすかにほころんだ。ごゆっくり、と言い置いて、彼はカウンターの内側へと戻っていく。

 フォークを手に取り直して、私はもう一口タルトを食べた。舌に残ったレモンピールのほろ苦さは、叶わなかった初恋の後味のようだった。



「――だったのに、今じゃすっかりあなたの焼くレモンタルトが好きになっちゃった」
「餌づけしたみたいに言うな」
「妬いてるの? タルトだけに」
「うるせぇわ」

 カウンターの向こうで、彼が照れた顔を隠すようにそっぽを向いた。置かれたままのその左手に、お揃いのプラチナリングをはめた左手をそっと重ねる。粉々になったクッキーでタルトができたように、砕けた恋は新しい恋を生んだのだ。

「安心してね」

 脈絡のない私の言葉に、彼は視線だけで「なにが」と問いかけた。目と目が合って笑みが深まる。

「タルトを焼いてくれなくても、あなたのことは大好きよ」


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